固有の合理性

合理化という言葉をほぼ効率化と同義で理解していたのだが、外国でさまざまな体験をするにつれて、「合理」、すなわち道理や論理にかなうとはどういうことかを考えるようになった。色々な会社を渡り歩き、システム開発やUIデザインに携わる中でも感じてきたことだ。文化にも関わる話なので、リスペクトの有無や文化盗用、保守と革新にも繋がると思う。

チェスタトンのフェンスという警句(なぜフェンスが建てられたかが分かるまで撤去してはならない)があるように、物事にはそうなっている理由がある。ウェブサイトをリニューアルする際、こちらが不要と判断して外した機能が、その会社には大事なものだったりする(ちゃんとヒアリングしましょう)。

この警句の良いところは、現状の追認で終わらず、理由が分かれば撤去しても良いとしている点だ。変えたいのであれば、本当は何がしたかったのかを明らかにし、不要な軋轢を避けながら、実現に向けて淡々と取り組む。

日本社会を欧米と比較して、劣っている、遅れているとする言説はよく目にしてきた。年齢や役職に応じた序列の重視や、面子や調和を保つために本音を言わないことなどが挙げられる。しかしこれらは韓国やタイにも見られ、日本より強い場合もある。それでも社会はそれなりに回っている。個人として合う合わないはあるにせよ、集団や組織としては絶対的に間違っているとまでは言えないだろう。

あるいは「タイが緩くていい」みたいな言説もあるが、日本と同じ基準や規範で考え、意図的に緩い方を選んでいる訳ではない。接客中にスマホを見てるとか、普通にご飯を食べてるとかも、その基準で良し悪しを判断した結果ではないのである。「お客様は神様」ではなく「売ってあげている」という世界観だと捉えると、理解できるかも知れない。ただし、この捉え方自体、日本文化に慣れた側からの視点である。土台が違うのだ。

自分に都合のいいものだけを選び取り、理想の組織や社会をつくろうとしても、それぞれを成り立たせる条件が違うので、単純に組み合わせることはできない。プラスチックの過剰包装をやめたくとも、高温多湿の土地では食品の保存や衛生にも配慮が必要で、単に減らせば済む話ではない。

私は、人の行動や世界観、それを支える社会、その社会が根付く土地や自然環境を連続的に捉えたい。つまりは風土ということになる。小田部胤久『美学入門』では、オイディプス王の「悲劇に固有の快」として「この状況なら自分もそうする」という共感可能性に触れていた(文学が必要とされる理由のひとつ)。インタラクションデザインやコンピュータに固有の表現を探りたいのも、そういう興味からかも知れない。

異文化理解 博士論文