決断するコスト
決断するコストは軽く見られている。ミーティングの日程調整でも遊びの予定でも何でもいい、最終的に決断を下すということは、その決断が及ぼす影響に責任を持つ、いやそこまではいかなくとも、少なからぬ責任を感じることになる。誰かに無理をさせていないか、毎回自分だけに都合良くなっていないか、その日に想定外の事態が起きないか。
このような調整を行う際に、いつも「合わせます」と答えたり、選択肢を出して相手に選ばせる人がいる。もちろんそうした方がいい場合もある。しかしこういったやり取りは自分や相手の立場によって変わるので、常に同じパターンで返していい訳ではない。その場その場の判断をなくすことで認知負荷を下げることはできるかも知れない。だがそのコストは相手が払うことになる。
最悪なのはそうして自分が「気を遣っている」認識でいることだ。相手に合わせることで自己犠牲をし、なんなら搾取されているとすら思い込んでいる。主体的に選ばなかったからこんな状況になっているのに、他責にする。誰も幸せにならない。
こういった摩擦に対するセンスは鍛えない限り磨かれない。磨かないといつまでもコスト感覚が分からない。相手との距離感、上下関係、タイミング、現状認識を織り込んで決定することは難しい。それでも少しずつ自分で決めることで、そういったことを敏感に察知できるようになる。
意識して決断する、相手が嫌がりそうなことでもちゃんとお願いして巻き込む、借りを作ってレバレッジを利かせないと個人を超える仕事はできない。しかし私はもう大人なのでいちいち指摘することはしない。ただ、離れていくだけである。